●19歳になって思うこと 2004/11/14
久し振りに筆を執りますね。ここ最近、ずっと抱いてた疑問があったのですが、それが一瞬にして解明に向かって動き出したそんな衝動に駆られるような気持ちになったのです。19歳になり、成年と未成年との微妙な立場になりましたが、だからこそ敢えて今、「未成年」について触れたいなと思いました。


「最近の若者は」というのは古代から使われていた常套句(決まり文句)らしいと言うのはとあるテレビ番組で言われていたようで、どうやら昔の人も歳を取るとどうも若者に対してどうも懐疑的と言うか批判的と言うかそういった類の感情で判断してしまっていたそうです。それは今の人も同じで、現代人もまた「最近の若者は」なんて口癖のように使っていたりします。ただ、"最近の若者"は本当に少しおかしいようです。それは若者である僕の目から見ても明らかな事です。例えば戦後の混乱期に窃盗や強盗等の犯罪に子供が手を染めまくった時に出来た少年法。あれはあくまでも敗戦後の混乱を想定して作られている法律です。ところが今の僕らは豊かである。それなのに何故か子供の犯罪は増えている。少年法を盾に、「実名報道されない」「刑罰軽い」等とむしろ少年法を積極的に利用して犯罪を犯しています。また、現代病とも言える様々なものが実体化してきました。PTSD、鬱病、またそれ以外の様々な病気や特に精神の病。僕らが思ってる以上にこの世は住みにくい世の中になっているようです。連日ニュースで報道される凶悪犯罪。少し首を傾げてしまうような事件。こういったものに少年少女が荷担するのはもはや珍しい事でも何でもありませんね。

「豊かなのに何故心が満たされないのだろう」と言う疑問は先進国ならどこでもぶち当たっている壁かもしれません。アメリカでも学校で起こった銃乱射事件。凶悪犯罪。アメリカの場合は国内的に圧倒的な貧富の差という問題があるので、ある意味で途上国的側面を持っていると捉える事も可能ですが、その事を抜きにしても先進国としては有り得ない犯罪が沢山起こっています。それは欧州においても同じ。途上国の人たちから見れば食糧が満たされ、仕事があり、余暇も楽しみ、欲しいモノもある程度手に入る世の中なのに、一体何の不満があるのだろうと首をかしげて僕らをあざけ笑っているかもしれませんね。彼らの犯す犯罪は「生きる上」には必要であるが故に犯すものですから。僕らみたいに利己的な理由で犯す犯罪からすれば、逆に言えば随分と救える犯罪の種類なのかもしれませんね。

現代社会は非常に薄い関係だと言われてます。僕も日記に何度か取り上げましたが、現代日本は昭和などの一世代前まで確実に存在していた様々な制度や慣習が「古い」とか「ダサい」とか「面倒くさい」と言う名目の元、崩されていきました。イエ制度は崩れ、町内会活動は停滞、住居の高層化により新住民の大量流入が発生し、誰がどこに住んでるか把握するのが難しくなった。その結果としての地域社会の崩壊、核家族の増大・・・。理由を挙げればキリがありませんが、少なくとも僕たちは地域の人たちと関わる機会が少なくなりました。いや、地域の人だけでなくむしろ「人」と接する機会は明らかに減っていった気がします。昔の人の幼少時代の思い出話しを聞くと、大体話題に登場するのはまず友人、親戚、そして地域の人です。僕らが子供の頃の思い出話をする時に、地域の人の思い出話をする機会って、たぶんほとんど無いです。つまり、僕らの世代になるともう殆ど「地域」と言うのは「生まれ育った場所」というより「住んでいる場所」という意識が強いのです。その土地に生まれ、その土地の人たちに触れ、その土地で育つ。そういう概念はもはやその土地があったから買って住む。それ以上もそれ以下も無く、何の意味も持たない土地へと変貌を遂げて行きました。

さて、少し話しが反れたので戻すと、現代社会の崩壊により薄くなった人間関係に拍車を掛けたのは「携帯電話の普及」そして「世界のグローバル化」だと僕は確信しています。よく「居場所が無い」と言う人が最近増えたような気がしますが、居場所が無い人はまず大抵、家に居場所が無いと言う理由を第一に挙げます。原因は様々です。家庭内の事情という場合もあれば、親の束縛がウザいとか、単なる個人の利己的な理由を挙げる場合もありますし。

そもそも人間の居場所とは何だろう と考えた時、僕は「母親の胎内」では無いかとふと閃きました。人間はどこかで母性本能みたいなのを備えていて、男性は女性にまた母性本能を求めるとも言います。男は誰しもマザコンであるなんて事も言われてますよね。これはきっと、遺伝子的また本能的に母親の胎内が一番居心地が良いと植え付けられているのかもしれませんね。だとしたら子供たちにとって最大の居場所と言うのは「母親の胎内」つまり「家」なんですね。だから、家に居場所が無くなると子供はとても傷つきます。昔は家に引き篭もっている事が可能でした。携帯電話が無かった昔、家に連絡を取る場合は家の電話を使います。この行為は家を通して行っている事ですよね。家の電話を使っているのだから。つまり、子供は家に守られ、家族に守られ、地域社会に守られと、様々な外的要因から保護してくれる様々な壁が存在していました。ところが現在、携帯電話の普及によりこの構造は脆くも崩壊してしまいました。携帯はコミュニケーションを進歩させただなんて矛盾した謳い文句を堂々と掲げる携帯電話会社も増えていますが、携帯電話はどこで誰とでもコミュニケーションを取れます。しかしこれは家に引き篭もる状態を不可能にした とも言えるはずです。携帯電話と直接友人と繋がっているから、常に誰かと連絡が取れます。この事が逆に、自分のいるべき場所がどこなのか不透明にしてしまったのです。どこかにあったはずの家庭と友人と自分との関係の中に存在していた壁が携帯電話によって破壊され、いつでも誰とでも自由に連絡が取れるから、逆にどういう時にどの場所にいればいいかなんて分からなくなってしまったのです。

"インターネットの普及、国際経済の飛躍的発展によるグローバル化。若者は常に世界に意識を向けてないといけなくなり、「日本」という揺り篭から外に放り出され、遂には世界へと旅立って行かないといけなくなった。今まで守ってくれていた「日本」という故郷も失いつつある若者にかかる精神的プレッシャーは大きい。"
大体要約するとこのような事が書かれてた新聞記事を見たのはほんの数日前。
この記事はかなり良いトコロを突いてます。もし事実だとしたら僕らは様々な場所から「居場所」を失いつつあるのです。常に競争を強いられ、勝ち負けや学歴で人間性を決められてしまう社会に、親や学校もなお子供達を後ろから叩き上げて競争させようと仕向ける訳ですから、子供に居場所はありません。落ち着きたいとかゆっくりしたい子は怠け者だとか協調性が無いとかという名目で社会的に排除される傾向がどうもあるような気がします。子供はどこかでそんな社会とか親とかに反抗したいのかもしれません。その反対運動を助長してるのが人権保護だとか個性とかを謳い文句にしてる人権保護団体とかそういった類の人達。子供はどこかで入れ知恵をされた「個性」とか「人権」とかと言う単語を使い、好き勝手に振る舞う。ここに子供と社会の対立構造が出来上がってしまう訳です。

ふと僕は思うのですが、現代の子供達って(勿論自分も含めて)本当に"楽しいのかな?"って思ったりします。何て言うか本音と建前を上手く使い分けると言うのは旧来からの日本文化ですが、現代はもはや"建前"でしか生きていないような気がして。人間どこかで本音を常に持ってはいるのですが、そういうのを外に出すとバカにされる。「熱い人」だなんて粋な人も減っているし、「真面目な人」と言うのももはや軽い人間の反対に位置する人に対するある種の皮肉とでも言う意味で使われています。また、協調性と言う言葉が従来は行動面や学校教育の上でよく使われていたのですが、遂に個人の精神面にまで及びつつあり、「周りに合わせないとダメだ」とか「周りに合わせないとハブられる」とか、そういう恐怖意識が生産されつつある今の世の中で、自分の本音を出さず、常に建前で行動をし、周りと歩調を合わせさえすればそこそこの人間関係を過ごせるだなんて考える人間が増えてるのでは無いでしょうか?本音で語り合える人間があまり存在しなくなったし、自分の意見を言う機会もある種減ってるような気がします。もしかして、自分の本音が一番言える場所は?と聞かれた人が答えるのが"2ちゃんねる"だなんて答える人達がこれからもっともっと増えていくかもしれません。そんな環境下で「本音」を自分の中に溜め込んでしまって、結果として出る症状が現代よく話題として挙げられる 不登校 引き篭もり PTSD いじめ キレる子供達 少年犯罪の増加 などなど、歪んだ形で表面に表れて来てるのでしょう。ムカムカした感情をどこにぶつけたらいいのか分からなくて、結局変な方向に走ってしまうんですね。これが例え僕の想像だとしても、5割いや7割ぐらいは良い線をついているような気がしてなりません。

携帯電話の発明は人類にとって果たして良かったのか?と言う疑問は常に生まれます。ビジネスマンにすれば仕事と休暇の境界を取り払われ、家にいても仕事のメール、電話・・・。家では家族の為に働いたはずなのに、「貴方は仕事しか興味が無いのね」なんて言われ離婚、財産の半分も子供も何もかも妻に持っていかれ、一体全体何のために仕事をしてきたのかなんて途方に暮れるビジネスマン。僕も数十年後にはこんな風になってるのかなんて想像すると時々深い憂鬱みたいなのに襲われるのですが、今まででも忙しかったビジネスマンが、携帯電話の発達により一層忙しくなってしまった感じがします。また子供達は携帯電話を通じて友達といつでも連絡が取れるから、暇になるとすぐに他人に依存しようとする傾向が生まれてしまいました。暇ならば例えば読書しようとか勉強しようとか自分の為に何かしようとするよりも、他人と遊んで過ごしてしまおうだなんて事を考えるようになったし、それを可能にしたのが携帯電話です。家にいるのに常に友達とメール等を通じて連絡を取り合ってる人も多いですよね。これでは一体何の為に家にいるのか全く分かりませんね。家にいる時間は本来、自己啓発とか家族とのコミュニケーションに使ったりするのが従来の時間でした。"コミュニケーションの障壁を取り払った"と言うのが携帯電話会社の言い分でしょうが、僕に言わせて貰えば、"明確化されていたコミュニケーション間の区切りをぶち壊したのが携帯電話だ"と言いたいですね。「携帯電話は悪い人達がすぐ連絡を取れるようになり、集結するのが早くなって非行を助長させるモノだから、使うな!」とは僕の中学の時の全校集会で校長がおっしゃっていて、僕は当時「典型的頭の固い昔人間だなあ」なんて笑っていましたが、今では何となく当時の校長先生が言いたかった意味が何となく分かる気がします。携帯電話のメモリに入ってるのが友達とか知り合いの人であると言う定義が生まれてしまった今、僕らの人間関係はもはや携帯が支配しつつありますよね。つまり、機械に僕らは支配されてしまっているのです。未来のSF映画の世界が今少しずつ進行しています。

僕らは何故必死になって携帯のアドレスの人数を増やそうとするのでしょうか。「オレアドレス帳に100人」「オレは150人」だなんて躍起になってる人を尻目に僕はいつもそういうセリフに対して?マーク人なのですが。携帯電話の登録人数=友達・知り合い だなんて定義をいつの間にか僕らは適用している訳です。僕からすれば携帯電話如きに人間関係を決められたくないと言う気持ちからか、アドレス帳の人数を必死に増やしたいとも思わないのですが。「凄いんだね」と言う僕の返事に込められた本当の意味は"凄い"と言う気持ちなんかじゃありませんが。大体、小学生ぐらいの子供に携帯を持たせるのに何の意味があるのかなあと思います。ガチャガチャ携帯いじくってる姿を見て、ナマイキだと言う感情よりも、可哀想だななんて気持ちが先行してしまいます。携帯を持つ事はその時点である程度機械に拘束されると言う事です。子供のうちはある一定の年齢まで自由に生きて欲しいものですが。

これだけ心理学とか研究が発達しても、現代の子供達の闇に迫れている事は無いようです。もしも解決策が発見されたとしたら、今ごろあちこちで議論されてる子供達の心の闇だなんてのは一斉に消え失せてるはずなのですが。だから僕はあまり占いだとか心理学だとかそういった類のものは信用出来ないんです。心理学が完璧ならばそういう問題は解決出来るはずだろうと。未だ解決出来ないのは結局他人の心理なんて他人には解明出来ないんじゃないかって思うんです。まぁこの気持ちは感情論でしかなく、原則として他人の気持ちが解明出来ないから解明しようと頑張ってるのが心理学であろうなんてのは百も承知ですが。どちらにせよ心理学が活躍の場を広げる社会なんて、あまり良い社会では無いような気もしますが。だってそれだけ人間が心に病を抱えてるって事だからね。


これから最近の若者達はどうすればいいのでしょう?現代に抱える病をどのように解決したら?村上春樹は1980年代ぐらいから、僕ら若者の心をどこか分かりきったような視点で作品を書いてます。新聞記事見て思ったのは、そういえばノルウェイの森に出てくる直子が抱えてる病はもしかしたら現代の引き篭もりに通じるものがあるような気がするし。主人公の"僕"が抱える気持ちって、現代人に当てはまってるような気がしてなりません。(そう考えるとノルウェイの森は恋愛小説ではなく、どこか未来予想的側面なのか、現代人の抱える気持ちを描写した小説なのか分からなくなりますね。是非1度読んでみてください)答えはなかなか出ない複雑すぎる問題だけど、僕的に1つ思うのはやはり個性というのを勘違いしない事だと思います。人間社会で生きていく上である程度の協調性は求められると思います。社会は、協調性を人間がそれぞれ守って行動する事をある程度まで個人に期待するのを前提に構成されています。学校教育で今まで無理矢理協調性を教育してたと思えば、こんどは無理矢理"個性"なんてものを教育するようになったから、好き勝手に振る舞うのを個性だと勘違いする人が増えている気がします。子供は単純だから、そういう教えを純粋に信じて守ろうとします。学校に行かないのが個性だ、他人と歩調を全く合わせないのも個性だ、自分の生き方を自分で生きるのも個性だ、挙句の果てには人を殺すも殺さないのも僕の個性だなんて言い出す輩が増えていってしまったりね。やはり個性は"生まれもって持つひとりひとり違うもの"なんかではなくて、"社会で生きていく上でそれぞれ少しずつ違ってくる一部分"みたいなもんではないかなあって。よく「個性的な人」とか「個性的だと出る杭は打たれるみたいなもんだよね」なんて自虐的に笑う人がいるけれど、他人に迷惑をかけるのが「個性」ならそれは大きく間違っているような気がします。「個性」という言葉を使いたがる人に限って、その人の個性が他人に多大なる迷惑をかけているのは僕の単なる思い込みでしょうか?本当の意味で「個性」を持ってる人は少なくとも他人から嫌な感情を持たれないし、「個性的だ」なんて嫌味を言われる事も無いように思われますが。個性的である上で前提となるのはある程度他人と協調性を持ち、ある程度他人の気持ちを分かる事です。他人の気持ちも知らないで唯我独尊で個性的に行動するのはそれはただの自己中心的なだけな気がします。そういう人、増えていませんか?

協調性なんていらない人がいるとよくこう言いたくなります。「じゃあそのままアメリカに行ってその行動をしてみろ。絶対に受け入れてくれないでしょ。僕らが日本語を使うのは日本と言う社会と協調する為。自動車は左側通行だと言うのを守るのだって、日本が決めた交通システムにどこかで協調してるから。君がアメリカに行って日本語を使い、左側通行守って運転してみろ。1ヶ月以内に死ぬから」と。左側通行守って運転すると何故死ぬかを知っているかどうかは常識の範囲ですが(何故なら欧米諸国は基本的に右側通行)、常識や協調性に僕らはある程度縛られている訳です。そういうのを無視して生きていくだなんてもはや無理な話しになっているという事です。だからって、協調性ばっかりを主張する人達が多くなるのも問題ですが。どうも両極端に話しをしたがる人が多い気がします。「協調性」を主張すれば「個性」が必要だなんて言われるし、「個性」を主張すれば、「協調性」だって必要だろう みたいな感じで・・・。何事も物事程々にという原則が分からない人が多いのも難しいところです。

他にも様々な要因が挙げる事が可能かもしれませんが、少なくとも今の僕に分かるのはこれくらいかなあという感じです。どうか、他人と上手く協調しつつ自分にしか持ってない個性を自信持って出していきなさいだなんて教えてくれる先生とかに出会いたいものですね。あとは専門家が若者の心理でも頑張って分析して頂いて、結果をどこかの新聞記事にでも載せてくれるのを期待するばかりです(笑)


19歳になったからって、ちょっと色々頑張って考えすぎましたね。前回の日記から2年経っている訳ですが、あまり文章構成力が上がってないのは痛いですね。やはりこういうのは専門的知識訓練を受けない限り上達させるのは難しいのかもしれません。まぁそれより僕が提起したいのは「物事を考える」能力があるかどうかという事です。それこそこの能力は昔の若者に比べて現代の若者は明らかに無くなってると思いますが。個人的利害に絡む問題を思考する人はいますが、物事を大きく捉え解決しようとする能力を持ってる人は皆無に等しいです。僕が持っているという訳ではありませんが(笑)これから国際情勢が大きく絡んでいく世の中で、世界全体を幅広く見渡せる視野を持っていないと、さすがにマズいんじゃないかなあって思います。求められる能力は今の学校で習ってる英語国語数学社会理科の"暗記量"ではなくて、具体的解決をする為のアプローチをどのようにして出していくかだと思います。そのへんが日本の教育制度のまだまだ遅れているところですね。

僕個人的に抱えているこの微妙なる気持ちの解決策をどう探ればいいのか考えてたら出てきたのが今日の文章です。現代人である僕がこの微妙なる喪失感とでも言える感情をどのようにして埋めていけばまだ分かりません。果たしてこれが僕個人的な問題なのかそれとも現代人がある程度共通して抱える感覚なのかすらもまだ分かりません。精進しないといけませんね(笑)

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